戊辰戦争拾遺
小野友五郎の戊辰戦争
 

 

■慶応3年12月、小野友五郎の上坂ヘの疑問(1) 2020/07/15
■慶応3年12月、小野友五郎の上坂ヘの疑問(2)2020/10/09
■《概要》『慶応3年、小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』2023年4月15日

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【三河武士がゆく】
 
慶応3年12月、小野友五郎の上坂ヘの疑問(1) 2020/07/15


笠間藩(牧野家)出身の幕臣、小野友五郎が滝川播磨守と大坂に来て、江戸薩摩藩邸焼き討ちを報じたことは、藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(中公新書、以後『小野友五郎の生涯』と略す)のなかで明確に否定されています。刊行は昭和60年(1985)ですから、もう随分前になります。実は私がこれを知ったのは数年前のことです。

現在、愛知県の東端、「東三河」の公立図書館では所蔵が確認できません。公共図書館で読むには、豊田市か隣県の浜松市まで行く必要があります。ちなみに私が住む豊橋市の愛知大学の図書館にはあります。ネット古書店では、在庫が見つかってもけっこうな値段で売られています。ネットオークションでもたまに見かけるくらいです。

問題の箇所ですが、「勘定奉行並・小野内膳正広胖となった友五郎は、大目付・滝川播磨守具挙とともに、二十三日、品川から長鯨丸に乗り大坂に向け出帆した」(126頁)とあります。薩摩藩邸焼き討ちが12月25日ですので、23日に江戸を離れた小野と滝川が薩邸焼き討ちの情報を大坂にもたらすことができないことがわかります。

しかし、この記述には論拠が示されていませんので、23日の品川出帆や長鯨丸に乗船した事の確認ができないのです。また、同書に、薩摩藩邸焼き討ちの報は、27日出帆した外国郵便船に託した御用状によって30日に大坂にもたらされことは、木村喜毅の日記に明らかだと書かれていますが、この件もちゃんと調べてみる必要があると感じました。
巻末に「主たる参照文献」が掲載されていますので、資料にあたりをつけながら調べてみることにしました。資料探しの最初の段階で、佐藤泰史『あの世からの徳川慶喜の反論』(創成維新史研究会、平成25年[2013])を参考にさせていただきました。

小野友五郎の戊辰戦争
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慶応3年12月、小野友五郎の上坂ヘの疑問(2)2020/10/09 

『小野友五郎の生涯』では、12月23日の出帆とされていますが、出典が不明でした。刊本(小説や雑誌も含めて)のなかで、小野友五郎の上坂に関してどのように書かれているのか調べますと、次のようになりました。自力では限界がありますので、国立国会図書館デジタルコレクションや茨城県立図書館レファレンスサービスを利用させていただきました。2018年4月頃のデータです。


・1898年 杉本勝二郎『明治忠孝節義伝 一名東洋立志編 』第3輯
 記述なし

・1911年 南梁居士編『修養教訓 偉人豪傑言行録』
 記述なし

・1918年 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』
 12月28日、大目付滝川播磨守(具挙)と共に薩摩藩邸焼き討ちの報をもたらす。

・1920年 「贈正五位小野友五郎事蹟」(『大正七年茨城県贈位者事蹟』1920年) 12月23日大阪に赴く

・1972年 茨城県高等学校教育研究会編『会報と研究集録』第1号
 記述なし

・1985年 藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』
 12月23日出帆、長鯨丸乗船

・1992年 小野友五郎ほか『小野友五郎君国事鞅掌の事歴』
 記述なし

・1993年 笠間市史編さん委員会編『笠間市史』上巻・下巻
 記述なし

・2004年 小室昭『輝いた笠間藩士たち ふるさとの歴史2』
 12月29日着任

・2005年 『常陽藝文 2005年10月1日号』
 記述なし

・2011年 大野芳『天皇の暗号 明治維新 140年の玉手箱』学研パブリック
 12月28日大坂着、長鯨丸、大目付瀧川具挙と共に

・2011年 鳴海風『怒涛逆巻くも 幕末の数学者小野友五郎』下
 12月23日出帆、品川から長鯨丸、大目付滝川播磨守具挙と共に、12月28日午前大坂天保山沖着

・2017年 杉田捷機監修『小野友五郎物語』
 記述なし

・2017年 「咸臨丸航海長小野友五郎」(『世界の中の茨城』茨城県教育委員会)
 記述なし


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